蓮の葉の上で、輝く水玉の美しさに魅せられました
「玉と結びて蓮葉(はちすば)に おきたる露(つゆ)の一雫(ひとしずく)」 これは、梅花流詠讃歌『追善供養御和讃』の一番の出だしの歌詞です。 もう、30年以上、法事などの時に唱えてきましたが、 今年、蓮を大鉢に植えて、育ててみて、 「あっ!これが、おきたる露の一雫なんだ!」と、実際にみてなるほどと思いました。 すっと伸びた茎の上に広がる蓮の葉、そこに落ちた雨粒は、流れ落ちることなく、 たまっていき、大きな水滴となっていきます。 雨上がり、それが朝日に輝き、何とも言えない美しさです。 それをみていた時、風が吹いてきて、葉が揺れました。 すると、水滴は、転がり落ちて、あとかたもありません。 もし、蓮を育ててみようなどと思わなかったら、この先も気づくことの無かった現象でしょう。 前記事でふれたように、大本山永平寺東京別院焼香師を勤めさせて頂いた時、 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」を読んでお勤めしました。 蓮華の花の美しさは、つぼみも開花したあとも美しいですが、葉の美しさにも魅せられたところです。 まだ、花は咲いてませんが、お盆の頃には妙なる蓮の葉が参拝者を癒してくれるものと思います。
永平寺別院で焼香師を勤めさせていただき・・・
10月27日(火)~29日(木)東京西麻布にある、大本山永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)で、福山諦法禅師御親修のもと、御征忌(ごしょうき)が厳修されました。
今回茨城県祖門会の推薦により、27日の午時献供の焼香師を勤めさて頂くという有り難い御縁をいただきました。
檀信徒・梅花講員など、25名の方に随行して頂き、5名の僧侶にも随伴していただき、無事にお勤めを終えることができました。
午時献供では、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」、いわゆる「観音経」全巻を読みます。大本山永平寺東京別院は、長谷寺という名前からも分かる通り、観音様の霊場です。高さ3丈3尺(約10m)の一本彫りの大きな観音様があります。
ここを、戒場(かいじょう)に、御征忌にあわせて授戒会に準じて三日間の法脈会も行われます。
早めに到着したうちの檀家さんは、他の法要や、巡道、飯台にも付、その一端を体験することができました。
この得難い法縁に感謝し、10月の法話とさせていただきます。
盛くん、菊池盛昌さんとのこと
9月も今日で終わりです。9月の法話は、先月から構想をまとめておいたのですが、なかなかアップできずにいました。夏休みの宿題みたいに最後の晩に書いてます。
先月の末に、菊池盛昌さんの追悼コンサートがまいんであり、私もステージに登り、思い出のスピーチをさせていただきました。
不自由な体で、50号、100号といった大作から、卓上に飾れる絵やコンピュータ画まで、たくさんの絵画を残されました。また、シンセサイザーを駆使して、音楽も創り出しました。本当の意味でのクリエイターであり、芸術家でした。彼は、心の中にあったものを泉が湧き出るがごとく作品にしていきました。不自由な体で、自由に表現できたのは、お父さんである菊池国夫さんやご家族、そして、絵筆が持てなくなった盛くんに、特殊なマウスを使ったドット打ちの描法を教えてくれたパソコンの先生方の力添えがありました。
今月、菊池国夫さんが、盛昌くんが、平泉に行った時、中尊寺を見て感動して描いたという50号の大作「金色堂」を龍泰院の本堂に奉納入してくれました。私は、インターネットを通して、彼の不自由さを意識することなく、交流をさせていただき、龍泰院開山480年を記念して作ったポロシャツのデザインをお願いしたりしました。実際に彼と会っている時は、言葉がわからず、国夫さんの通訳が必要でしたが、ネットでは普通に会話が成り立ちました。かれは、平成26年1月2日に亡くなってしまいましたが、彼が不自由な体で自由に描いた作品の数々は、多くの人を勇気づけることでしょう。そんなことを感じながら、奉納された金色堂の内部を描いたその絵を眺めていました。
戦後70年に思うこと・・・
今年は、先の大戦が終わって70年ということで、TVなどでも様々な特集が組まれました。
実は、茨城県にはたくさんの戦争遺構があります。
笠間市にある筑波海軍航空隊記念館は、映画「永遠の0」のロケ地にもなり注目されました。
実は、3月いっぱいで建物の公開は終わる訳だったのですが、多くの存続希望の要望が寄せられ現在も公開されています。
新たに、地下司令部の遺構などもみつかり、日本国内に残っている最大級の戦争遺構であることがわかってきました。
また、茨城県には阿見町に予科練平和記念館もあります。土浦から5kmほどなので、首都圏からの交通の便も良いです。
展示品は、胸を打つものばかりです。皆さんにもぜひ訪れていただきたいと思います。
安倍総理でさえも昭和29年生まれ、私も父は戦争に行きましたが、
戦争のことは、伝え聞いただけです。
平和の尊さ、命の大切さ、家族を思って戦地へ赴いた方々のことなど、次の世代へと伝えていかなければならないと感じた夏でした。
蛍が乱舞するビオトープ
袋田小学校では、PTAで協力して、昨秋、裏の休耕田にビオトープを作りました。今年の6月の奉仕作業でも木道を伸ばし、散策できるようにしました。
6月末の夜、ビオトープの様子を見に行ったら、なんと、ヘイケボタルがたくさん光っているではありませんか!残業で残っていた先生方にも教えてあげたところ、そのあと、PTAの人や地域の方々が、蛍を見に来たそうです。
蛍は、日没後暗くなってくる午後8時前後に光はじめ、1時間ほどがピークです。オス、明るく発光しながら飛び回り、草むらでほのかに光るメスを探します。やがて、産卵し、命を次の年へと伝えるのです。その営みは、神々しく見ている人を感動させます。
最近、アメリカで同性婚が合法化されたなどという話題をもてはやすメディアがあります。もちろん、同性愛者を差別するということでありません。しかし、私は、宗教者として、神の意思、自然の営みに相反するこうした思想に賛同はできません。懸命に子育てをする野鳥や、子孫を残そうと小さな体から光を発する蛍から人間は学ばなければならないと思います。
茶に逢うては茶を喫し・・・
大本山總持寺では、二祖峨山禅師の650回大遠忌法要が行われています。
横浜で開催された全国大会の翌日の5月28日、茨城県の梅花講員は、大祖堂で、
大本山總持寺二祖峨山禅師讃仰御和讃を奉詠させて頂くという有り難い御縁をいただきました。
大遠忌のテーマは「相承(そうじょう)」です。教えを受け継ぐことを改めて考えてみたいと思います。
「平常心是道」「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す。」
という言葉で表現された教えを確認したいものです。
奥久慈では、遅霜の被害を受けず、極上のお茶が採れました。
お茶は禅僧が中国から日本へ伝えたものです。
お茶をいただく作法も確立されています。
しかし、昨今、営業で回る時のマナーで出されたお茶を遠慮して飲まないとか、
一杯だけにして、少し残して帰るというのがあるのだと、インターネットに流れてました。
これは、本来のお茶の心から離れた間違った作法です。
出されたお茶は、感謝していただき、出す方も、さらにもう一杯をお茶を勧めるというのが本来の姿です。
心を込めて入れてくれたお茶をありがたくいただき、心を癒して頂きたいと思います。
寒暖の差の大きい厳しい環境で育った奥久慈のお茶の味わいは実に深いです。
ミニ鯉のぼりが泳ぐ袋田、舞い踊るYOSAKOI祭り
5月14日(木)袋田清流会、毎月一度の奉仕作業が行われました。
この日のテーマは、常陸国YOSAKOI祭りで袋田会場になる場所の道路清掃です。
5月16~17日に行われる常陸国YOSAKOI祭りには全国から踊子さんが集まってきます。
そうした方々を迎えようと、特に念入りに道路をきれいにしました。
それとあわせて、4月からあげている滝川のかわいい鯉のぼり(仮)も上げて歓迎します。
3月には、ひな祭りで盛り上げた大子町、5月は鯉のぼりで盛り上げます。
5月31日開催される奥久慈トレイルレースでも全国から大勢の選手や関係者が来るので、
5月いっぱい、鯉のぼりを上げておくことになりました。
トレイルレースでは、常陸太田市の山あいになる小さな集落「赤岩」や「持方」で地域住民が
選手たちをおもてなしする、「エイド」が行われます。
5月2日にその赤岩地区を訪ねてきました。
桃源郷のような赤岩であった地元の人とても気持ち良く会話ができました。
日本の原風景ともいえる山里の風景を残していきたいなぁ。と改めて感じました。
袋田であげている鯉のぼり、滝川のかわいい鯉のぼり(仮)から袋田のかわいい鯉のぼりになりそうです。
数も増やし、あげ方も研究したのでいよいよ(仮)がとれます.
5月さわやかな薫風が吹く、袋田を訪ねてみてください。
願わくは、花の下にて・・・
平安時代の僧侶で歌人の西行は、「願わくは、花の下にて春死なん その如月の望月の頃」と詠み、その願いどおりの花の季節に亡くなったといわれています。寒冷な当地では、旧暦2月に桜が咲くことはほとんどなく、たとえ、旧暦2月に亡くなったとしても、桜はまだつぼみです。しかし、今年は、旧暦の進行が遅く、平年より早い3月30日に開花したので、今日、4月3日は、旧暦の2月15日にあたり、まさしく、如月の望月と桜花が同時に楽しめる日となりました。
1月に、健康診断を受けた時は、いつも通り、中性脂肪やコレステロール値は高いものの、血圧は正常だったので安心していたのですが、3月に献血をした時、最低血圧がかなり高く、時間をおいて再測定して何とか献血できました。最低血圧が高いということは、血管にかなり負担をかけている証拠なので、身体を動かし、食べ物に注意し、体重も減らし節制しようと思いました。
桜は咲きましたが、花曇りで月は出そうもありません。今夜は、桜の花を見ながら西行の心に思いを巡らせてみたいと思います。
今年も百段階段でひな祭りが行われました
3月1日(日)坐禅会の始まる、午前6時、雨粒がパラパラと落ちてきました。
今年の百段階段でひな祭りは、中止かな?と思ったら、小雨降る中準備が進められているという情報が入りました。
大勢の方が楽しみにしているイベントなので、少しぐらい雨が降っても、やっちゃえ!ということになったようです。
午前8時30分頃には、準備も整い、神主さんのお祓いと主催者あいさつの後、午前9時の花火を合図に人々が昇り始めました。
私も、ひな人形を見ながらゆっくり昇って行き、ふと振り返ると、そこには、雲がまといつくようにたなびく大子の山なみがありました。
幻想的で水墨画のような風景が広がっていて、下には大子の街並みが見えました。
平成20年3月2日に、踊り場までの62段を使って開催された大子のひな祭りも、翌年には101段飾りとなり、すっかりひな祭りの行事として定着しました。
しかし、今年のように天候が良くないと、主催者の方の気苦労も大変だと思います。
今年は、このところ同時開催している「みんなのまいん全員集合!」とのタイアップで「花嫁行列」が行われました。
人口流出、少子高齢化が進む大子町ですが、若いカップルが大子に移住し、畜産を行うことになりました。
来月、結婚式を挙げるそのお二人を、みんなで祝福しました。
耕作放棄地、空き家などは、日本中でこれから大きな問題になっていくと思いますが、若い二人の姿に希望を感じました。
これからも、こうした話題を見つけて、ふるさと大子町を盛り上げて行きたいと思っています。
お寺を地域の避難所にする取組み
先日、茨城県總和会の研修会に参加してきました。
茨城県内寺院向けの研修会でしたが、東京で開催されました。
それは、講師が群馬県の宗務所長さんだったこともあります。
高崎市にあるそのお寺は、市の指定避難所に指定されました。
全国で初めてではないかと思います。
渡辺所長は、東日本大震災の時、お寺が地域の避難所になっているのを見て、
自分が住職を勤めるお寺を避難所にしようと、地域住民と相談しながら、
市に働きかけて、企業の協力も得て、500人が避難生活をできる場所として整備しました。
体育館は床板だけど、お寺は畳が敷かれています。
避難生活をするうえで、どちらが過ごしやすいか一目瞭然です。
さらに、企業の協力を得て、自家発電機や停電の時も使える自販機、
簡易トイレなども設備したそうです。
龍泰院は、古い木造建築なので、自治体の避難所にはなれないと思いますが、
大変参考になる話でした。
お寺は、曹洞宗だけで全国に1万5000ケ寺あります。
大雪、台風、竜巻、などの気象災害や地震の時、お寺が人々を受け入れてくれれば、
地域の人にとってこんな安心なことはありません。
お寺というのはもともとそういうところなのではないかと思うのです。
羊のように穏やかに
平成二十七年乙未の年が明けました。「羊」は喜びとか幸いを意味する「祥」に通じます。「善」という字にも、「美」という字にも羊がつきます。その意味でも、実にめでたい新年であります。
さて、地元の景勝地「袋田の滝と生瀬滝」が国の名勝に指定されることになりました。日本三名瀑の一つ袋田の滝が、今まで、国の名勝に指定されてなかったことの方が不思議な感じですが、文部科学省が厳しく査定する名勝指定については、大子町役場の町づくり課や大子町教育委員会生涯学習課の担当者が大変なご苦労を重ねてここまでこぎつけたのです。ミヤマスカシユリやフクロダガヤ、シロヤシオなどが自生するこの自然環境を守っていきたいという思いを新たにしました。
この冬は、いきなり厳しい寒さとなりましたが、みなさまのご健勝とご多幸をご祈念申し上げ、新年のご挨拶とさせて頂きます。凍結した袋田の滝や久慈川を流れるシガも、他の地域にはない珍しい自然現象です。また、雪が降ると、袋田の滝付近の山並みは、山水画のような景色になります。山と川が美しい袋田、今年も皆さんにお伝えしていきたいと思います。
大子町は横山大観ゆかりの地です
今年も師走を迎え一年のまとめの時期となりました。横山大観が大子で生まれたのかどうか、大観ゆかりの、それぞれの場所に行って詳細に調査した人が書いた資料を読むことができました。その資料によると、大子で生まれたということを証明する資料は見つからなかったものの、否定する資料もないので、はっきりしないということでありました。また、大洗から大子へ移住し、水戸に戻ったという資料は、著者が大子にいた時期を特定できずに、大洗と水戸の間に入れたようですが、それについては否定的でした。というのも、水戸へ戻った横山大観の一家は、水戸の学校に通ったもの、間もなく東京へ移住してしまい、詳しい証言が得られなかったというのです。大子生誕説の元になっているのは、朝日新聞に掲載された本人の証言であり、その時取材した記者などにも証言を取りたかったが会うことができなかったそうです。
しかし、当時の時代背景をみると、大子は、天狗党も諸生派もいるが、血縁関係があって、お互いを攻め合うような状態ではなく、天狗党の残党が諸生狩りをしている当時の水戸から比べるとはるかに安全な場所であったのでしょう。身重の大観の母親が、知人を頼って大子で子を産もうとしたのもうなずけます。そして、水戸を逃げ出して大子で生んだということは、武士の面目からも言いたくない話であったというのも理解できます。晩年になって、母から聞いていた自分の出生の秘密を記者に語ったというのが自然だと思うのですが・・・。
いずれにしても、本人が晩年に語っているので、大子町で生まれた可能性は高いと思います。もし、水戸で生まれたあと大子へ移住して来たとしても、大子町が大観ゆかりの地であることに変わりはないのです。
さて、龍泰院のホームページをリニューアルしました。スマートフォンやタブレットなどでも見やすいようにしました。新しい年が間もなくやってきます。新しい年も龍泰院のウェブ・サイトを宜しくお願い致します。