殺生が禁止された霊場、高野山
10月に曹洞宗茨城県宗務所主催の檀信徒研修で高野山へ登りました。登りましたといっても、今は車で標高約1000mの山の上に広がる平地、高野山へと行く事が出来ます。紀ノ川沿いからさほど広くない道路をバスは、すれ違いに苦労しながら登って行きました。大門の前を通過すると、山の上の街並みが現われてきます。今でこそ、簡単に登れるようになりましたが、かつては、山道を苦労して登る霊場であり、女人禁制ということで女性の立ち入りが禁じられた場所でもありました。
永平寺や總持寺といった曹洞宗の大本山へは研修等でよく行きますが、真言宗の総本山である高野山へ行くのは初めてでした。奥ノ院、金剛峰寺、壇上伽藍等をお参りし、宿坊に泊り研修しました。時の関白豊臣秀次が天下人太閤秀吉によって追放されたのもこの高野山です。かつて、女人禁制、殺生が禁じられた聖地であるというのは、石童丸の物語でもわかります。四国八十八か所を巡礼した人がその最後に奥の院へお参りに来ることも今回知りました。
そこで、不思議に思ったのは、そこに逃げ込めば命を奪われることのない霊場高野山、そこに追放された秀次はなぜ、そこで切腹したのかいうことです。秀吉が切腹を命じたというのが一般的な説でしたが、最近になって、時間的な経過からみても、秀次は自ら切腹したのではないかという説が出てきました。私も、その説が本当だと思いました。 奥の院へ行くと黒田、前田、佐竹、といった大名、大企業の供養塔がたくさん立ち並んでいます。黒田家の供養塔の近くには、豊臣家、徳川家、織田家の供養塔があります。それをみると、争いの絶えない戦国の時代においてさえ殺生が禁じられた高野山は、人々にとって特別な場所だったのです。
宿坊に一泊した後、バスは熊野へと向かいました。熊野を訪れたのは二度目でした。龍泰院は、熊野山という山号です。古から信仰を集めた熊野、そこが、どうして信仰を集めたのかを学ぶ旅になりました。